(昨日14時30分テイクオフ。滑走するソラシドエア機。ギリギリセーフ。やったぜ!)
今日の話もドラマ、裏話は書けない、、。
私の県庁生活、最大の苦難はエコクリーンだが、一番働いたのはSNA(現ソラシドエア)再生。
商工次長の時。厄介な仕事を山ほど抱えていたのに、「企画(交通行政は企画部が担当)ではどうにもならない、商工でやってくれ」と「SNA緊急支援の厳命」がM知事(秘書課長は、もっちゃん)から下った。
結論から先に書く。「その話をC部長から聞いた時、即座に無理です。そう知事に伝えて下さい。」と断った。それで済まないのが宮仕えの辛い所、説得され、引き受けざるを得なかった。自慢する訳ではないが、「Tさんと私がいなかったら、SNAは破綻、県経済は大混乱していた。」
当時Tさんは宮崎県信用保証協会(中小企業の銀行借り入れ円滑化を支援する公的機関)の部長。
郷土愛、仕事への熱意と責任、先見性、分析力、交渉力、タフ。
県経済の命運を決する極秘プロジェクト。最強のパートナーに恵まれた。
夕方4時頃になると必ず、大きなカバンを持って、私の部屋を訪れ、「陸の孤島宮崎。県経済浮揚に果たすSNAの役割を訴え、経営破綻は何としても防がなければならない。そのために、今、県は、金融機関は、経済界は何をすべきか?」の一念で、迫ってくるから、逃げようにも絶対逃げられなかった、、。こんな熱い男は初めてだった。
私は「陸海空の交通の円滑化は県行政の根幹。企画が本腰でやるべき仕事。経営が悪化すれば、議会が反対しても公金を投入するのが先、民間の支援を求めるのはその後。そこからが商工の出番。」との信念ではあったが、事態は急を告げ、そんな理想論を並べる段階ではなく、「折角地元が立ち上げた格安航空会社、観光や経済の下支え、何より若者の雇用を守る。」と切り換えた。
こんな経過で、「航空産業再生という、誰もやったことがない大事業への闘い」を、Tさんと二人三脚で挑むことになった次第。
Tさんは、「私の行動の根拠(SNAの収支や資金繰りの見通し、金融機関の動向、優先する課題と誰が動くかなど)を理路整然とレポートに纏め、」を事前にしっかりレクチャーし、私は、直ぐ部長に報告、部長は三役の了解を取り付ける極秘の作業が連日続いた。
もてる力、無い知恵を絞り、法すれすれの離れ技を捻りだし、逃げ腰の企画部を引っ張り込み、渋る金融機関と粘り強く交渉(巷では脅しとの評)を続け、県経済界ではどうにもならず、九州経済界の代表7社にも折衝する(企画発案)という「公務員の領域を遥かに超えた仕事」を次々にやってのけた。
しかし肝心かなめの金融機関は「シーガイヤの二の舞になるのを警戒、支援に対しては一貫して厳しい態度だった。」
航空機の経費は膨大、あの手この手で供給した資金も枯渇、八方ふさがりになりかけた時、飛び込んできたMT銀行のH常務。「地方企業を再生する、新しい法律が出来るという情報を入手しました。これで行きましょう」という、まさに天の声。
経済産業省のNさん(私の前任)に確認、優秀な県職員を集め緊急チーム結成、Nさんの指導で短時間でスキーム作成、抵抗する財政課長を激論の末、説得、一部議会の反発もあったが、「全国トップで、宮崎県中小企業等支援ファンド」を設立。金融機関も県がそれ程の覚悟ならと、出資に応じ、県民の会(部長発案)の支援の輪も広がり、国の産業再生機構の支援も取り付け、SNAは再生の道を歩み始め、ソラシドエアに名称変更、体制も強化され、ANAとの共同運航、数年後には黒字化を果たし、路線も拡大、今や宮崎の有力企業に成長。
当時はM知事、再生の混乱期にA知事、そして例の官製談合事件、その後H知事、K知事と次々にトップが替わり、SNA再生の経緯を知る県職員、県民は少ない。
Tさんは、今も、県内中小企業の再生のため、日夜奮闘。救われ、大化けした皆さんご存知の会社も多い。
まん延防止等重点措置は解除されるとは言え、コロナ終息は見通せず、ウクライナ問題の県経済への悪影響という不安材料も重なってきた。
早く辞め、10JOYCの皆と遊びたいそうだが、残念ながら、後継者がいなく、当分は多忙な日々が続くと思う。
「極秘。孤独。精神的肉体的にも過酷な仕事。」体だけは充分気を付けてもらいたい!
(公的機関で現役のため、顔写真は控えました。)
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