先日(美術館に行った日)皇宮の森。昼食を頂き、Mさんが来るまで、まだ1時間もあった。
「ちょっといいかな。」とママ、真顔で話し始めた。
「Ifさんも、お母さんの介護、大変だったんでしょう。奥様が頑張られたんですよね。」
「私達家族はね、満州から引き揚げ。だから、貧乏で、母は苦労したのよ。」
「でも子供のころはね、正月には、百人一首。母が上の句を読んで、兄弟姉妹で取り合う。楽しかったー。」
「『例え貧乏でも、心まで貧しく育てた覚えはない』。それが口癖。」
「私がいい年になった頃、『貴女はどうせ結婚せんつもりじゃろ。そんなら、店(エ○○の前の店)やってみらんね。』て言われて、母を手伝って、水商売の道に、、、。」
「あれから30数年。いいお客さんに恵まれ、よう頑張ったと自分でも思う。」
「そんな訳で、母と暮らし、世話もしたのよ。」
「歌が好きでね。それも童謡唱歌。店を辞めてからも昼は、ずーっと、ケンちゃんの店に来てたのよ。」
「体が弱って、寝たきりになって、もうだめかなと妹と話してたある日。ベッドで急に唄い出してね。」
「びっくりして、『お母さん、唄うと?ちょっと待っちょって。テープを持ってくるかい。』」
「妹がテープを持ってきて、三人で唄ったのよ。早春賦。」
「春は名のみの 風の寒さや
谷のうぐいす 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず、、、 ♪♪♫」
「そのテープ、今も、とっちゃっとよ。」
「そしてね、臨終のとき。『お医者さんが、皆さんお集りになりましたね。』と 注射されたらね、
パッと目を開けて、『○○さん兄弟仲良くね。』『○○さん兄弟仲良くね。』と、一人一人、声を掛けたのよ。」
「それから、あたりを見回し始めてね。『ほら、姉ちゃんを探しよっとじゃが」と妹が言うから」、
「『お母さん私よ、何?』と近寄ると、『世話になったね、世話になったね。』と何度も手を合わせるの、、、。』
後は、言葉にならなかった。
私も、泣きそうになったが、「お母さん、ご苦労されたようだけど、幸せだったんですよ!」と、言うのがやっとだった。
【記事を書き終えて、、、。】
『生』と『死』。
『一番尊く、重たいこと』だと思うが、『そのカタチ』は、誰にも選べない。
「お母さんのこと、ブログに書いてくれん。」 頼んだが、やんわり断られた。
「じゃー私が書いていい。普通有り得ない話、皆に伝えたいから、、、。」
そんなやり取りがあって、この記事に、、、。
『ひと様の生き方、その終わり、ご家族の思い、などなど』、とても書き尽くせない。
『残された命、燃え尽きるまで、、、。』
簡単ではないが、『大切に、楽しく、自分らしく、生きたい。』 そう思いました。
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