『長男は親の面倒をみるのが当たり前』、物心ついた頃から、明治生まれの母に刷り込まれていた。
大学の4年間、ラグビーと寮の思い出しかないが、束縛から開放された自由は何物にも代えがたかった。
3年になり、寮の友人は、商社、銀行、ゼネコンなど就職の情報交換でもちきりだったが、『宮崎に帰らな
ければいけなかった私は仲間外れ、、、。』
銀行は向いてないと思った私、T百貨店しか頭になかったが、義兄から県庁を強く勧められた。(多分、母の
要請)
当時の公務員試験は8月が1次試験、2次面接は10月という遅さ。
寮の友人は、7月には一流企業の内定をもらい、どんちゃん騒ぎ。一人、不安な日々を過ごした。
10月初め、宮崎大学とのインカレ予選に負け、坊主に。顔も擦り傷だらけ。
運悪く、その1週間後に面接。この姿ではダメだと覚悟した。
呼ばれて部屋に入ると、三人の面接官が驚いて私を見つめた。
「その頭や顔の傷はどうしたのか?」怖い顔をした一人(人事係長)が質問。
「私は大学で4年間、ラグビーをやってました。先週宮大とのインカレ予選に負けました。試合に負けたら
坊主になるのが大分大学ラグビー部の伝統です。顔や体の傷は名誉の負傷です。」開き直って答えた。
年が明けた1月中旬、諦めていた採用通知、ホッとした。
多分、『ラグビーと坊主と擦り傷が決め手』になったのだと思う。
If? もし、宮大に勝っていたら、不採用だったかも、、、?
だとすれば、皆さんとの出会いも無いんですよね、、、。
災い転じて何とやら、こうして波乱万丈の県庁生活が始まった。
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