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 父に捧げたい、、。

今日ブログ499回。500回へのバトン、、。

父に捧げたい、、。

前にも書いたが、、。子供の頃、父と遊んだ記憶がない。

終戦直後、公職追放。40代前半の若さで県庁を去らなければならなかった父。不在地主で失った少ない田畑で慣れない農業。子供5人を育てることに。

私が生まれた時は45歳。朝から晩まで働き通し。心身ともに疲れ、やんちゃ坊主の相手をする余裕など、とてもなかったのだろう、、。

それでも、定かではないが、まだ小学校に行く前か? 佐土原の鬼子母神祭り、妻の夏祭り、宮崎の博覧会に連れられ行ったこと、かすかに覚えている。父との数少ない思い出、、。

鬱屈した心、過酷な労働が体を蝕んでいたのだろう、、? 胃薬を手放さなかった、、。

大学卒業、県庁に採用された時は67歳。やつれた姿、、。

「息子には悲惨な思い出は語りたくなかったのだろう、、。」父と酒を酌み交わしたこともない。若気の至りでは済まされないが、「父を思いやる気持ちが俺にもう少しあったら、、。」

親孝行らしきこと。結婚して直ぐ、父母を誘い姉たち家族と行った高千穂、山口・下関旅行。孫(長男)を抱かせてやったこと、、。たったそれくらい、、。

西都を引き払い大塚台に新築の決断。同居し余生をゆっくりと願っていた。長男誕生の喜びも束の間。胃がんの手術、余命半年の宣告。運命を恨んだ。上棟式の写真「いい家じゃねー!」と喜んでくれたのが唯一の慰め、、。新築祝いには間に合わなかった、、。

戦後77年、、。戦地への召集を免れ、生き延びることが出来た訳だが、それで”幸せ”だったのだろうか、、? ふと思う時。。。無念で、切ない、、。

今、畑と田んぼ。遊び事だが、それでも農業の大変さが分かり、なお更、父の苦労を思い知った、、。

遅すぎるが、「父ちゃん、よう頑張ったな!ありがとうな!」

今日は、供(9)養(4)の日とか、、。(天声人語)

【築後44年の我が家。何とかかんとか、やっちょるかい、見守っちょって!】

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