(俳優みたいでしょう。世界サーフィン誘致交渉。1989年。鎌倉)
「Mさん。センス抜群。」 寡黙だが、仕事への熱意、誇りに圧倒される。
「県庁は頭が堅い。六法全書を手に難しい仕事をする所」。多くの県民は、そう思われているだろう。
何でか分からないが、私は、大きなイベント(六法全書は役に立たないどころか邪魔)、三つもやらされた。
Mさんとタッグ。最初はグチャグチャだったモノが、彼のヒラメキ、決断、プロデュースの結果、いずれも、トキメキ、感動、共感を生み、[スポーツランド宮崎」に大きな成果を残した。
先ずは、90ひむかの祭典。(1990年、空港拡張、港開港記念。)
「サザンオールスターズのライブ」、カタブツ部長の猛反対で断念。
何処で情報キャッチしたのか?「世界アマチュアサーフィン選手権」に急遽変更。鎌倉の日本サーフィン連盟に猛アタック。
新島(伊豆大島)で行われた、大会方法を決める最後の役員ミーティング(外国人)に乗り込み、宮崎・来崎浜を猛アピール。宮崎と新島の分散開催を勝ち取った時は、思わず万歳バンザイ。写真は終了後の懇親会。
宮崎大会期間中、大勢の観客で賑わい、まるでハワイ。(行ったことはないが。)
木崎浜(先日)。今や国内有数のサーフィンスポット。「サーフィンメッカ宮崎」を国内外に知らしめたのは、このイベント。Mさんの功績なのだが、、。
二つ目が「第1回日本スポーツマスターズ宮崎大会。2001年」。中身ゼロ、予算も無く、選手も集まらず、四苦八苦。よくぞ成功に導きましたね。綱引きはFさんのお陰ですが。!(^^)!
高円宮殿下。サッカー試合に出場された直後に急逝。ショックでしたね!
最高の思い出が2002年、「ワールドカップサッカー日韓大会。ドイツチームのキャンプ。」
丁度シーガイヤの経営危機と重なり、ホテルの賃貸交渉が難航。と同時に、傲慢なドイツと優柔不断なスウェーデンとの連日連夜ハードな協議。
ウルトラX(禁じ手。マル秘)を捻りだし、閉館していたシーサイドホテルフェニックスにドイツのプレスセンターを設置。
殺風景なロビーに日本庭園を造り。脇にフリードリンクカフェ。その一角はまるで外国。Mさんのハイセンス、プライドの高いドイツ人も感服、ベタ褒め。「やっと私たちを認め、話を聴いてくれるようになりましたネ。」
「オリバーカーン」などスーパースターばかりの選手とスタッフ100人、400人以上の記者。約2カ月のサポート。ハプニングの連続、スッタバッタ。お疲れ様でした!
順調に勝ち上がり、決勝へ。宮崎を発つ最後の記者会見。「世界各地でキャンプしたが、宮崎が一番良かった。最高のオモテナシだった。」フェラー監督が最大の賛辞。飛び上がって喜び、手をたたきましたネ!
決勝戦、ブラジルに惜敗。それでも堂々の準優勝。
当時の写真、探したがない。(バタバタで撮る余裕もなかった。(>_<))
下の写真。記念のモニュメント(先日撮影)。Mさんデザイン。フローランテ南、サッカー場北の芝生。
是非、見に行って下さい。
鏡のようになっていて、カメラマンが写ってしまいました。!(^^)!
2003年。キャンプのお礼に、宮崎のサッカー少年がドイツに招かれ、交流試合など歓待。
私も副団長で参加。この時、Mさんを同行できなかったのが、今でも悔やまれる。
今更遅いが、本当にゴメンナサイ!(少年団派遣の所管は教育委員会。融通がキカン所。)
今、地域創生、大吟醸を飲む会、コンサート主催などバリバリ。
まだ山ほどあるが、これで打ち切り。(>_<)
次の飲み会の時、アレコレ訊いてください。
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