(旧東ドイツの古都ドレスデン。第二次世界大戦の空襲で尖塔が破壊された教会。)
N新聞東京支社Yデスクとの話。
「ドイツでは皇帝の称号を与えられたサッカー界のスーパースター、ベッケンバウワーさんが先日お亡くなりになりましたよね。私、宮崎キャンプにお見えになった時、たまたまサインを頂いたことがあるんですよ。」
「それで、Ifさんもベッケンバウアーさんとの思い出があれば、教えてもらいたいのですが。」
「ほー、それは宝物ですね。私は事務局でバタバタでしたので、残念ながら、お会いできませんでした。」
「そうですか。実はベッケンバウアーさんに因んでコラムを書きたいと思いまして、宮崎キャンプのエピソードがあれば教えてください。」
「一杯ありますよ。先ず第一は全国の自治体が激しい誘致競争の中、宮崎がヨーロッパの強豪、ドイツとスウェーデンの2か国誘致に成功した事でしょう。誘致に動いた各自治体関係者は”何故宮崎に2か国も”と垂涎の的でした。」
「第二はヨーロッパの強豪国ですから、日本の宮崎なんて交渉の相手にはしてくれない。兎に角、宮崎の事情は全く知らないわけですから、要請があれば、どんな細かな事でも拒まず(お金は出しませんでしたが)サポートしてあげました。」
「例えば、選手たちのジャージなどの洗濯はクリーニング屋を手配、休みにサイクリングがしたいとなれば自転車を用意、魚釣りも漁船を紹介するなどエブリシングOKのスタンス。」
「一番大変だったのはプレスセンター。何しろ次の(2006年)Wカップはドイツ開催でしたので、400人の記者が来県したんです。場所を何処にするか?ドイツ協会トップをあちこち案内しましたが、400人を収容できる”空き施設”は何処にもなかったんです。」
「結局、シーサイドホテル(シーガイヤが倒産、閉鎖したホテル)を借用することになり、その交渉を買収したR社と仲介してやって、何とか2Fに設置。その工事はドイツ協会がやったのですが、大変だったのは400人の記者の皆さんのお世話です。」
「この大集団のサポートシステムを作ってくれたのが仲間のMさん。1Fロビーにガイダンスブース(事務局数人配置)、フロワーに日本庭園やカフェ(無料のコーヒーメーカー)。素晴らしいエントランスに変身。約2か月、記者の皆さんの雑談場所となり、リラックスして過ごされ、大好評でした。」
「キャンプノウハウは全くない宮崎でしたが、ドイツ教会、選手、記者の皆さんにも、心からのホスピタリティーが伝わったようです。」
「キャンプが終わり宮崎を離れる記者会見の場で、フェラー監督が”今までいろんな国でキャンプしてきたが、宮崎が最高だったと、お褒めの言葉を頂き、お礼に来年(2003)宮崎のサッカー少年をドイツに招待すると約束されたんですよ。涙が出るほど感動しました。」
「へーそんな事があったんですか。」
「それで、2003年宮崎のサッカー少年20人を連れて、私もドイツに行ったんです。」
「確か、水害の寄付もされましたよね。」
「はい。Wカップが終わり、一息ついたところに、ライン川支流のエルベ川が氾濫、ドイツ各地で大水害が発生したことを知り、寄付金を呼び掛けたら200万円余が集まり、M知事からドイツ大使にお届けし、大変感謝されました。」
「宮崎の寄付金はドレスデン(旧東ドイツの古都)のサッカー場の修復に使われ、プレートにも趣旨が残っています。ドイツに行った時、そこに案内され、市庁舎を訪れ、市長さんにも面会しました。」
「他には何か?」
「宮崎の食材、肉や魚もさることながら、サラダの生野菜がとても美味しい、甘いと評判でしたね。」
「スポーツランドみやざきが高く評価された大会でしたね。」
「そうですね。宮崎の温暖な気候風土、グラウンドの芝の整備など練習環境、海や山のリラックスできる自然があってのこそですが、何より、巨人軍キャンプから長い間続けてきた”県民の温かいもてなし”の成果だと思います。」
「ありがとうございました。コラムの新聞送りますね。」
20年前の話をよく覚えて頂いて、本当に嬉しかった。
昨日、Mさんにも報告。喜んでくれた。!(^^)!
これは私やMさんではなく「宮崎の自慢話」なのだが、県民は知らない、、。
【冒頭の教会に着いた時、携帯の着信音。何だったのか?はブログ1000回達成後に。】
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